東京・浅草で屋形船に乗る前にちょっと裏浅草を街歩き。前回はドヤ街があった山谷から、吉原へ繰り出す旦那衆が船で乗り付けた日本堤をご案内しました。
2回目は新吉原があった場所にいよいよ潜入(?)します。
遊郭への出入り口であった「吉原大門」から街歩きをスタートしましょう。
日本堤を挟んで、山谷の向かい側にある吉原遊郭
吉原遊郭はもともと日本橋付近(現在の日本橋人形町のあたり)にありましたが、有名な明暦の大火(1657年)により焼け出され、現在の裏浅草(台東区の東側)へとお引越ししました。住所でいうと千束4丁目から3丁目の一部。
日本橋にあった場所を「元吉原」、移転先を「新吉原」と呼んでいます。
吉原遊郭に入る入り口はただ一つ、それが吉原大門です。現在は交差点の名前として残っています。
交差点の脇にはその遺構として「見返り柳」があります。衣紋坂(えもんざか)入口の左側に建つ石碑がこれ。
この見返り柳は、吉原から帰るお客さんが遊郭を振り返り、なごりを惜しんだことからその名がつけられたとか。樋口一葉の書いた小説「たけくらべ」の冒頭にも登場します。
「たけくらべ」は吉原の遊女を姉に持つ美登利(みどり)と龍華寺僧侶の息子信如との恋を描いた明治時代の作品。台東区竜泉に記念館があります。
交差点には柳がありますが、震災や戦火で焼け出され、現在のものは昭和時代に植え替えられたものだそう。
ちなみに衣紋坂の名前は、遊客が着物の衿を正した(身なりを整えた)ことに由来します。
吉原大門にいたる道は、いまもそのままS字カーブを描く
吉原の大門に続く道は五十間道と呼ばれていますが、思いっきりS字を描いています。
NHKのブラタモリを見た人はご存知かと思いますが、大名や将軍など身分の高い人が遊郭に入るときに姿を見られないようにするための配慮。
当時は外茶屋が立ち並ぶ賑やかな通りだったそうです。
映画「吉原炎上」の冒頭に登場した吉原大門
交番の脇に「吉原大門」と書かれた柱があります。江戸時代はここに黒塗りの木造冠木門があったそうです。
明治14年頃に鉄製の大門になり、明治末期には門の上にアーチが架けられ豪華なイメージに演出されたそうです。ところが1911年の大火で焼失し、関東大震災をきっかけに撤去されてしまいました。
大門を入ってすぐのところには吉原専用の番所(四郎兵衛番所)が設けられ、女性出入りを厳しく取り締まっていました。
吉原は横約355m×縦約266mの四角形のエリアで、遊郭の周りは堀幅5間(約9m)の「おはぐろどぶ」に囲まれている構造。
おはぐろどぶは、当時、生活用水も流していたそうです。
おはぐろどぶの現在の姿は普通の道路。
おはぐろどぶ側から見た吉原跡。当時の段差がそのまま残り、現在は階段で上れるようになっています。
意外と深い・・・。2mあったそうです。
遊女がおはぐろどぶに飛び込み逃げようとして、おぼれ死んだ人もいたというのもうなずけます。
日本堤を背にして、衣紋坂から五十間道(S字カーブしてる道)を進み、大門口を入るとまっすぐに伸びるのが「仲の町」というメインストリート。この道に沿って大店と呼ばれる遊女屋(茶屋)がずらりと並んでいました。
しかもこの仲の町。桜の季節になると咲いた桜を持ってきてここに一斉に植えたそう。散ってしまう前にまた、引っこ抜いてというスケールの大きな仕掛けもしたといいます。江戸時代のテーマパークというわけですね。
仲の町の左右には羅生門河岸と浄念河岸という道があり、この3本をつなぐように碁盤の目のように道がつけられていました。いまもそのままの区分けが残っていたり、通りの名前が残されていて、ちょっとおもしろいです。
当時の吉原は流行の発信地
吉原遊郭で遊ぶためには、それなりの教養や財力が必要だった当時。花魁と遊ぶためには何度も通い、馴染みにならなくてはなりません。当時の費用で約200万円ぐらいかかったとか。
花魁となるには美しさだけではなく、華道や茶道、三味線などのお稽古事はもちろん、囲碁、将棋、和歌、美しい文字で手紙を書くなど、教養の深さも必要でした。
佐伯泰英さんの小説「吉原裏同心」で、神守幹次郎の妻、汀女(ていじょ)が遊女たちに読み書きや手紙の書き方などのマナー教育をするシーンがありましたね。
ここで生まれた装いは江戸中の女性たちも虜に。300を超える髪型を編み出し、流行らせたといいます。
よく使うことばも吉原発祥!?
吉原から生まれたのはファッションだけではありません。今でもよく使われている「ことば」もたくさん生み出しました。
買い物をせずに見るだけで帰ることを「冷やかし」といいますが、このことばも吉原発祥。
新吉原近くの隅田川で浅草紙(再生紙)を漉いていた職人たちが、原料を冷やしている時間(2時間ぐらいかかった)暇で、遊女と遊ぶ金もないまま、吉原を見て回ったそうです。
職人は遊女が声をかけられ「冷やかしてんだよ」と暗に「紙の原料を冷やしてる」ことを伝えたとか。
それ以来、買い物をせず店先をのぞくだけのことを「冷やかし」というようになったというわけです。
この他にも「スルメ」のことを「アタリメ(人のものをスルに通じて縁起が悪い)」と言い換えたり、お茶のことを「あがり(客のつかない遊女が暇を持て余すことをお茶を挽くというので演技が悪い)」と言ったりとたくさんあります。
また、郭内で使われた「ありんす」ことばは、地方からお金で買われてきた遊女が、お国言葉をしゃべることで「お里が知れる」ことを避けるために考え出されたもの。
共通語もありましたが、お茶屋によって違うことばを使っていたりしたそうです。「〇〇ざます」も元は遊女のことばだったそうですよ!
さて3回目は、吉原遊女の日常生活をご紹介。吉原神社や鷲(おおとり)神社、飛不動尊まで歩きます。
▼ 東京・浅草周辺の屋形船
■今回街歩きしたスポット
●吉原大門
住所:東京都台東区千束4丁目10‐8
●アクセス:JR「南千住駅」より徒歩約16分、東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」から約12分
台東区コミュニティバス「ぐるーりめぐりん」もしくは「北めぐりん」で「吉原大門」バス停下車
▼浅草観光に意外と便利なコミュニティバスもっと詳しくはこちら
・台東区をコミュニティバスで観光してみた!①
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・屋形船に乗る前に裏浅草を歩く(3)吉原遊女が信仰した神社
・屋形船に乗る前に裏浅草を歩く(4)苦界に沈んだ吉原遊女の思いを拾う